べっく日記

偏微分方程式を研究してるセミプロ研究者の日常

クリティカルシンキングについて。

6月になった。このブログを始めたのが今年の3月6日だったので、次の月曜日でちょうどブログを始めて3カ月ということになる。おかげさまで、私のブログの認知度が徐々に上がってきた。しかし、ブログを定期的に読んでいる方から最近ブログサボってるよと指摘されてしまったので、今日はまじめにパソコンでがっつり書こうと思う。

 

さて、6月になり、リクナビマイナビの2018年卒用のサイトがオープンされたようだ。私の他学科の同期を見るとサマーインターンが云々といっている人が増えてきた。実感として、院生の人は学部生よりも就活の意識が高いようだ。まあ、だいたいの人は「いい会社」への就職を目的に大学院に進学するので、自然といえば自然である。

 

私もサマーインターンに参加しようと模索した時期があったが、サマーインターンに参加するにもエントリーシートやサマーインターンのための選考があったりと、とてもめんどくさそうなので参加を見送ることになった。

 

インターンや就活では、グループディスカッションが選考に組まれていることが多いようだ。しかし、今までディスカッションの教育を受けたことがない人が大半なのに、そんなことができるのだろうかという疑問がわいた。一応「グループディスカッション やり方」でググってみると、仕切り役の人を決めましょうとか、書記を決めましょうとか、タイムキーパーを決めましょうとか、そういう事務的な部分を解説しているものが多く、肝心の「ディスカッション」のやり方を説明しているものは少ないように感じた。

 

よく、「論理的に考えよう」といわれる。いわゆる「ロジカルシンキング」である。しかし、日常生活おいても明らかなように、論理的に考えることとディスカッションをするは別の話である。ディスカッションの際には物事を批判的に考える、「クリティカルシンキング」が必要だと私は考えている。

 

伊勢田哲治氏の「哲学思考トレーニング」を読んで、クリティカルシンキングについて勉強したノートがでてきたので、そのノートをもとに、ここではクリティカルシンキングについて解説していこうと思う。8つのセクションからなるので、今のうちにコーヒーとお菓子を用意しておくといいかもしれない。ノートの性格上、ところどころ説明が箇条書きになっているが、ご了承願います。

 

《1.クリティカルシンキングとは》

クリティカルシンキングを日本語に訳すと、「批判的思考」である。つまり、物事を批判的にとらえて考えようということである。ここで注意していただきたいのは、批判するということと中傷することは別であるということである。

 

ここでいう批判とは、簡単にいえば「疑う」ことである。疑うということはつまり吟味することである。では、いったい何を疑い、何を吟味するのか?それについては次に扱う。

 

《2.議論の構造》

議論(=ディスカッション)とは次の3つの要素からなっているものをいう。

(1) 主な主張(結論)

(2) 理由となる主張(前提)

(3) 前提と結論のつながり(推論)

 

ここで注意すべきは主張には根拠のない主張と、なんらかの理由をつけた主張の2種類あるということである。後者の場合に理由を挙げてそこから結論(主な主張)を導き出すのが「議論」である。

 

先程、クリティカルシンキングとは批判的に物事を考えること、と説明したが、クリティカルシンキングの主な対象は議論である。すなわち、クリティカルシンキングの基本は議論の3つの要素をはっきりさせて、(2)と(3)が本当に妥当なものかどうかを吟味することである。つまり、

(1) 議論の明確化

(2) 前提の検討

(3) 推論の検討

の3つを行うのがクリティカルシンキングだということになる。ここで、前提と推論を検討した結果、ともに妥当と判定されたら結論も妥当であると一応認めてもよいことにする。

 

まあ、いろいろ書いたが、クリティカルシンキングの出発点は議論を特定する(相手の主張についてどういう前提からどういう結論が導き出されているかをはっきりさせる)ことである。

 

《3.議論の心構え》

 クリティカルシンキングの基本はまず疑うことである。疑ってみなければ何も始まらないのである。よく「こういうデータがあるので【主張】だと言えます!(キリッ」という人がいるけれども、そういうデータ及び数字が本当なのか?と疑うことが大事なのである。

 

有益な情報が多い雑誌や新聞でも、いいこと書いてあるな―と受け身になってはいけない。いいことが書いてある文章には吟味が甘くなりがちなので注意が必要である。

 

疑ってみるためには、まず何を疑おうとしているのかをはっきりさせる必要がある。つまり、この引用文ではどういう主張がされて、その主張はどういう議論でサポートされているのかをはっきりさせないといけないのである。

 

議論をはっきりさせる、つまり、議論の構造をつかむためにはまず結論を探すのが近道である。高校の現代文で扱ったような上手に書かれた文章はだいたい文章の最初または最後に結論が書かれている。もちろん、場所だけでなく「従って」とか「つまり」といった接続詞も結論を探すためのマーカーになる。逆に「しかし」、「そして」、「あるいは」でつながっている主張が結論である可能性は低い。

 

次にその結論を出す理由(前提)として何が挙げられているかをみる。よほど単純な議論でない限り、理由は複数挙げられる。ここで、この理由となる主張はできるだけ細かく分けたほうが、後々の吟味がきちんとできる。理由となる主張の中には結論にとって不利なものも含まれていることがある。そういう場合にはたいてい、その不利な証拠を打ち消すための別の証拠や、一発逆転で不利な主張を有利な主張に変える議論が用意されている。そうした構造を「期待」しながら分析すると、理由探しはしやすい。

 

どういう結論に対してどういう理由が前提として挙げられているかがわかったら、次にすべきことは推論の流れをはっきりさせることである。前提が並列的にいくつも列挙されることもあれば、直列的に互いが互いの前提や結論になっている場合もある。

 

ということは、構造を特定する上では接続詞が重要な役割を果たすことがわかる。先程も触れたように、「つまり」、「なぜなら」、「従って」は根拠と結論を結ぶ接続詞であり、「また」、「そして」、「かつ」は根拠を並列する場合に用いる接続詞である。ここで注意すべきなのは、基本的に並列された根拠をすべてやっつけなければ結論を覆したことにはならないということである。なぜなら残った根拠が結論を十分にサポートしている可能性があるからである。

 

不利な証拠をあげておきながらそれを別の主張で打ち消すという構造の議論があることは先ほど触れた。この議論の構造としては、不利な証拠を打ち消す議論の全体が最終的な結論をサポートするための根拠として機能していると考えることができる。この場合、「確かに~である。しかし、~。したがって~」のような譲歩構文が使われる。

 

結局、議論を特定するということは、議論の中に登場する主張をひとつひとつ取り出して、その構造を図式的にまとめる、ということである。

 

とはいえ、言葉とは非常にあいまいなものである。それゆえ「行間を読むこと」が求められる。例えば、「できる」という言葉を考えてみた場合、それが「許可」を意味することもあれば、「物理的に可能である」ということを意味することもあれば、「法律的には可能である」という意味もあり、たいていの場合、その判断は文脈に依存している。

 

そうやって揚げ足のとりあいをするのが論争であると考えている人が多いように感じる。しかし、そういう論争をしていても有意義なコミュニケーションはできないし、なにより時間の無駄である。百歩譲って、ストレスの発散にはいいかもしれない。

 

論争は互いの主張を理解する協力的な作業であると考えるのがクリティカルシンキングの考えである。クリティカルシンキングの基本は疑うことなのだから、それと矛盾しているのではないかと聞こえてきそうだが、疑うとはあくまでも主張を「吟味する」ことなので、矛盾はしない。 論争とは、数学でいえば(証明まで含めて)定理を完成させる作業なのである。あまりにも当たり前な前提を省略する場合もあるが、推論に明らかなギャップがあるように見える場合には、そのような省略を疑うほうがよい。

 

主張を分析したのに、結論が変わらないのでは損をしたような気持ちになる場合があるのかもしれない。しかし、クリティカルシンキングの基本は穿った事を言うことのではなく、ある主張をしっかりとした根拠のもとに受け入れることなのである。

 

《4.科学的事実の利用》

 前提に「科学的事実」が持ち出されることは多い。最近でいえば水素水とかだろうか。「科学的事実」が万能かというとそんなことはない。「科学的」と自称しているものが本当の意味で科学的かどうかも疑ってみる余地はある。

 

科学的事実が持ち出されるとき、「科学者」もセットで持ち出されることがある。しかし、科学者だからといってすべてを信じていいわけではない。なぜなら、科学者と自称している人がすべて科学者だというわけではないからである(例:茂木○一郎氏)。「博士」や「大学教授」という肩書も、それだけで知的権威を保証するわけではない。要は「だれだれさんが言ったから、【主張】は正しい」とするのは危ないのである。

 

もちろん、すべてがそういうわけではないが、最低限、その人が権威をもつとされる理由と、言っている内容の信ぴょう性の間に相関がない場合、その人の主張は使わないほうがいい。テレビのニュースやワイドショーのように、「有識者」などといって大学の先生などに社会的な問題についての意見を求めたりしているが、この場合、その人の権威と話題の間にどの程度の相関があるのか、あやしいことは多々ある。

 

 結局は、ある主張の善し悪しとを判断する場合は、主張する人を見て判断するのではなく、どういう証拠からどういう推論でその主張が導かれているか、という点で見るべきなのである。

 

小保方○子氏のSTAP細胞に関しての騒動を見ればわかるように、科学そのもの、ないしはグループとしての科学者が信頼できるからといって、ここの「科学者」が信用できるとは限らない。実験などを通じて、「科学的に実証された」と主張されることがあるが、科学的事実は実験一つ、論文一本で出来上がるものではない。実験の場合、再現性がなければ意味はないのである。ましてや、査読もろくにされていないような論文で報告された一件の実験結果で「科学的に実証された」と主張するのは気が早すぎるのである。

 

さて、このような科学的思考を日常生活に活用するとどうなるのか。

 

ある議論において証拠とされている前提が本当に成り立っているかどうか考える際には、反例を考えてみることが有効である。ここで、反例とは「その仮説が正しいという条件のもと、絶対に起こり得ない(もしくは起こる確率が極端に低い)出来事」である。前提から結論を導き出す推論についても、その前提が正しくても結論が間違っていること(=反例)はないか考えることが重要なのである。

 

また、言葉の定義をしっかりする、というのも大切である。定義をしっかりすることで、言葉のあいまいさを取り除くことができ、誤解を起こしにくくし、スムーズな意思疎通を可能にするのである。思い違いによる行き違いを未然に防いだり、解決したりするために定義は重要な役割を果たしている。つまり、定義をはっきりさせるということは「意味の混同」を避ける役割を果たしている、といえる。

 

また、「AをすればBになる傾向がある」と主張するために必要なのは統計的検定であり、「Aすれば必ずBになる」という場合には、いろいろ条件を変えてAをやってみて本当にBになるかどうか確かめる必要があるので、そういった微妙な言葉の違いにも注意が必要である。

 

《5.三段論法》

 いわゆるロジカルシンキングでは必ず三段論法が出てくる。よく知られた三段論法は

(1) AならばB

(2) BならばC

 という二つの前提から「AならばCである」という結論を導き出す、よく知られた、妥当な推定である。

 

高校の数学でも学習したように、AならばBというのはAという集合がBという集合に拡張できる、ということなので、いま挙げた前提は

(1') AはすべてBである

(2') BはすべてCである

と書きなおすことができ、これらの前提から「AはすべてCである」という結論を導き出すことができ、この命題は「AならばCである」という命題と同値である。

 

しかし、この三段論法は扱える主張のタイプが非常に限られていることに注意が必要である。例えば「私の大学の先生は犬を飼っている」という主張を三段論法で扱える形に正確に書き換えることは難しいし、「私の大学の先生はみんな犬か猫を飼っている」というような複雑な文になるともう駄目である。そこで登場するのが後に説明する「実践的三段論法」である。

 

また、よく考えてみれば当たり前だが、どんなに筋が通っているように見えても、結論になってはじめて出てくる名詞や動詞がある推論には、必ず何か飛躍ないしは明示されていない前提が存在するので、どこで暗黙の前提を用いたか、しっかり補う必要があるので、注意が必要である。

 

また三段論法に似た論法で、「AでないからBだ」と結論づけてしまう過ちはよく見かける。これは「誤った二分法」と呼ばれ、複雑な状況をAかBかという形で単純化することによって生じる。例えば、人間をすべて敵と味方に二分して、「君は味方でないから敵だ」といった判断をするのがこれに当たる。このような過ちについて知っておけば、相手の議論につい説得されそうになったときに「おや?まてよ…」といって考え直すのに役立つ。

 

《6.実践的三段論法》

 実践的三段論法は基本的には先ほどの三段論法と同じだが、大前提と結論に特徴がある。次の例は実践的三段論法の例である。

大前提:すべての野菜は体に良い

小前提:かぼちゃは野菜である

結論:かぼちゃは体に良い

 

大前提には一般性の高いカテゴリー(ここでは野菜)に関する主張が挙げられ、小前提ではある特定の事物(かぼちゃ)がその一般的カテゴリーに属することが示される。この二つの前提から、その特定の事物にも同じ主張が当てはまることが示されるのである。

 

自分が当然正しい、望ましいと思っているものを前提にしている場合があるが、他の人がそれに対して異議を唱える場合は十分あり得る。この場合は、まず、実践的な三段論法を用いて、互いの主張の背景にある大前提(より一般的な主張)と小前提(大前提と結論を結ぶ事実判断)を特定する。小前提で対立している場合は、証拠を突き合わせたり、言葉遣いの違いをはっきりさせたりすれば対立を解消できる場合が多い。一方、大前提の対立は、さらに大前提を遡るか、あるいは互いの大前提がもっともらしいかどうかを他の事例にあてはめることによって判断する、という方法をとればよい。

 

例えば、環境問題で、「人間のことだけをやめて自然生態系そのものを大事にすべきだ」という倫理的な主張があったとしよう。この主張は一見、「人間だけを大事にすべきだ」という主張と対立するように見えるが、よく聞くと、「生態系を大切にしないと人間は滅びる」という理由で「生態系そのものを大事にしよう」と主張する人が多い。この場合、どちらの主張も「人間を大切にしたい」という部分で一致している。よって、すでに一致した部分にはできるだけ手をつけず、それでも不整合が生じたら、できるだけ無理の少ない方向で修正を行えば、対立を解消することは可能である。つまり、一致点を上手く利用すれば意見の調停は可能である場合が多いのである。

 

《7.二重基準の過ち》

 二重基準(ダブルスタンダード)とは、「Aだから」という理由でBを批判しながら、同じ「Aだから」という理由の当てはまるCは批判しない、という態度のことである。二重基準の過ちは意外に多くの人が犯す過ちで、結論が最初からあってその結論にたどりつくためにあとから理由をつけるような場合によく起きる

 

例えば、「人間が他の動物の肉を食べるのは許される」と主張する人になぜそう思うのか理由を聞いて「それは人間が他の動物より知能が優れているからだよ」という回答が得られたとする。ここで仮に人間よりも知能が優れた宇宙人が地球にやってきたとしよう。その人は、「その宇宙人は人間より知能が優れているのだから人間を食べてもよい」と主張を受け入れるのだろうか。もし、そのような主張を受け入れないのならば、その人は二重基準の過ちを犯すことになるのである。

 

《8.間違いを認める態度》

 当然、議論を通じて自分の主張の間違いを指摘される場合が出てくる。この場合、間違いを認めて改める、という態度が重要である。人間は批判されることに弱く、自分の意見を批判されると頭に血がのぼり、自分自身が攻撃されたように感じ、相手が何を言っているのかもよくわからなくなることは多い。

 

こういう場合は、まず、自分の意見に感情移入しすぎないようにするのである。自分で思いついて愛着のある説も、場合によっては切り捨てる覚悟がないと結果的には自分に跳ね返ってくる。相手に譲歩するのはプライドが許さないという人は、自分の意見を無理やり弁護し通すことにプライドを持つのではなく、自分の過ちを素直に認められるということにプライドを持つことを考慮してみるとよい。

 

そもそも、自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではない。もし、論争相手がそこを混同しているようであれば、人格の攻撃と切り離したかたちで冷静に論争できる場を整えるのがよい。また、批判されて頭に血がのぼっていると感じた場合は、自分が落ち着くまで返事を待ってもらうのがよい。

 

「間違いを認めて改める」態度を実践することは難しいが、それが結局は実り多い論争につながり、また、実り多い論争からは自分自身も得るものが多いのである。

 

【ノート終わり】

 

以上がクリティカルシンキングの概要である。クリティカルシンキングについてもっと知りたい人は次の本を買うといいと思う。特に、この記事では具体例についてあまり扱えなかったので、就活する人は一読したほうがいい気がする。

 

こんな長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。では。

 

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

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